三菱商事

第7話 世界の海へ

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第7話 世界の海へ

岩崎彌太郎の夢の実現、海外航路開設のエピソードを紹介します。

明治維新後、彌太郎は土佐藩の大坂藩邸の責任者に昇進。藩士たちによって九十九商会が設立され藩営事業である海運が譲渡されると、監督する立場になる。社船の旗は山内家家紋の三つ柏の葉を菱形に表現した近代的デザイン。廃藩置県後は、彌太郎は民間人になり経営を引き受けます。1873年には船旗の三つの菱形にちなんで「三菱」商会と改称しました。

国のために尽くした三菱は政府のあつい信頼を勝ち取ります。13隻の政府船を委託された三菱は、横浜・上海間に航路を開きました。第一便である2月3日の東京丸には彌之助が乗船。彌太郎は埠頭で見送りました。「いずれ米国に、欧州に、世界の海に進出する」。上海航路は彌太郎の夢の実現の第一歩でした。

日本初のボーナス!?

1876 年、彌太郎は、上海航路での勝利は社員の奮闘の賜として、資格ごとに一律で賞与を支給しました。ほぼ1 カ月分の給与にあたる額が支給され、明治以降の近代的会社組織において、初めてボーナスを支給したのは彌太郎であると言われています。 郵便汽船三菱会社茅場町本社(1877年頃)
写真提供:三菱史料館

上海航路で、三菱の前に立ちはだかったのは、米国のパシフィック・メイル(PM)社。際限ない価格競争となり、運賃はたちまち半値以下。彌太郎は社員に檄を飛ばします。政府は特別法を交付。有事の際の徴用を条件に三菱に助成が与えられることになりました。具体策の目玉として、解散した日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与。船舶数は一気に倍増します。三菱は政府御用達の意味を込め、社名に「郵便」を入れ「郵便汽船三菱会社」としました。しかし上海航路の決戦は続きます。政府には、国内資本による上海航路確保は日本の生命線だという意識がありました。駅逓頭・前島密は日本の海運の自立のためPM社の営業権買い取りを主張。内務卿大久保利通も財政支援を約束。三菱はPM社と交渉に入り、ついに営業権を買い取ります。しかし、PM社撤退後、今度は英国のピー・アンド・オー(P&O)社が参入。香港・上海・横浜航路に加え、大阪・東京間にも進出、三菱に反発する顧客を急速に取り込んでいきます。三菱は荷為替金融なサービスを強化させる一方で、社長以下給料半減など徹底した経費削減に努めます。政府も外国船運航に各種障壁を設け援護射撃。P&O社もやがて撤退しました。

その後、三菱は、天津、朝鮮、香港、ウラジオストックなどの航路を開設。彌太郎の夢は、着々と実現していったのでした。

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