三菱商事

第11話 彌太郎を説得し、高島炭坑を買い取る

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第11話 彌太郎を説得し、高島炭坑を買い取る

事業の多角化をはかり、今日の三菱グループの基礎を築いた、三菱二代目社長 岩崎彌之助のエピソードを紹介します。

彌之助は兄・彌太郎とは16歳違い。1872年、彌太郎の勧めで、辞典とわずかな身の回り品を持ってニューヨークに赴きます。このとき渡航手続きをしてくれたのは、彌太郎の長崎以来の取引先であるウォルシュ兄弟で、一族の世話で英語を学びながら大いに見聞を広めました。翌年、彌太郎が社名に三菱を名乗り、海運界に雄飛しようとしていたとき、父が亡くなり、彌之助に手紙が来ます。即刻帰国して腹心として支えてほしい、と。彌之助は米国滞在を切り上げ、11月に帰国、ビジネスマンとしての人生をスタートしました。今で言う副社長として三菱商会に。22歳でした。

翌1874年、三菱商会は東京に本拠を移し、勝負に出ます。社長以下サービス第一に徹し、日本国郵便蒸汽船会社に勝利。社名を郵便汽船三菱会社に変更してさらに勢いに乗ります。彌之助は、台湾出兵の際の軍事輸送で経験を積み、西南の役でも陣頭指揮を執る。その後、東京海上保険・三菱為換店・明治生命・日本鉄道(現在の東北本線)の設立など新分野を切り開き、やがて本業の海運業で共同運輸と壮絶なサバイバル戦を、彌太郎と共に戦ったのでした。

副社長時代の後半、重要な役割を果たした最たるものが、高島炭坑の買い取り。高島炭坑は元禄年間から鍋島藩が細々と採掘、明治に入り国有に。それを後藤象二郎が払い下げを受けましたが、労使問題が泥沼化、経営は火の車でした。そこで政治家として資質の高い後藤を救うべく、福沢諭吉が、三菱に買い取りを依頼します。しかし彌太郎はなかなか「うん」と言いません。彌之助は、高島の推定埋蔵量、出炭予想、収支予想、既存施設の資産価値、三菱の船腹を利用することの意味、石炭販売の利ざやなどを総合的に評価、「買収すべき」と理詰めで彌太郎に進言します。話は二転三転、破談寸前、買い取り契約は成立します。彌之助の計算通り、高島炭坑は明治20年代における三菱最大の事業となって大きな収益をもたらし、三菱が海運事業から鉱業や造船を中心とする一大産業資本に発展する核になりました。

こぼれ話彌之助が語る“英語を学ぶ早道”

彌之助が留学したのはニューヨークから200km以上北にあるコネティカット州の片田舎でした。日本人はただ一人。全寮制の小さな学校で、朝から聖書を読み、夜まで英語を通しての勉強、勉強、勉強。後に川田龍吉(三菱の社長に次ぐ管事の立場にあった川田小一郎の長男)が英国に留学した際、彌之助は手紙を書いています。「英語を学ぶ早道は日本人とは付き合わないことだ。私はそうしたから16カ月で英語をマスターすることができた」

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