三菱商事

第19話 久彌編 洋紙製造、そして農場経営~二つの事業にかけた熱い思い

あゆみ 「挑戦」の原点

第19話 久彌編 洋紙製造、そして農場経営~二つの事業にかけた熱い思い

三菱三代目社長・岩崎久彌が打ち込んだ洋紙製造と、久彌ゆかりの地、小岩井農場についてのエピソードを紹介します。

久彌が三菱合資会社の社長として事業を統括し、鉱業や造船を中心に幅広く発展させたのは明治から大正にかけて。近代国家確立の時期でもあったこの時代、久彌が個人的に関心を持っていた事業の一つに洋紙製造がありました。
1898年、ウォルシュ兄弟の弟が病死し、兄が高齢で日本を去るに当たり、久彌は、彼らの製紙会社を買い取り、合資会社神戸製紙所としました。ウォルシュ兄弟と父・彌太郎は、長崎以来深い付き合いがあり、叔父・彌之助が明治維新早々、米国に留学できたのも彼らあってのことです。

神戸製紙所は、1904年に三菱製紙所に改称し、東京での工場新設に加え、中国の上海にも進出しました。この製紙事業は当初、三菱合資会社の傘下にありましたが、久彌が社長を退いた後は岩崎本家の事業と位置付けられ、久彌自身が経営に携わりました。1917年には三菱製紙株式会社となり、京都工場、浪速工場を買収していきました。

場所は変わって東北・岩手県。岩手の中ほどに位置する小岩井農場は1891年、ヨーロッパ農法による本格的な農場の建設を夢見た3人の男たちによって創業されました。日本鉄道会社副社長・小野義真、三菱二代目社長・岩崎彌之助、鉄道庁長官・井上勝。それぞれの頭文字をとって“小岩井”と命名され、1899年に久彌が農場経営を継承しました。

三菱製紙の高砂工場(1917年ごろ)

牧畜を経営の中心に据えた久彌は、英国からサラブレッド種を輸入して種馬の改良と生産、競争馬の育成に力を注ぎました。また、ホルスタインなどの乳用種牛を輸入し、品質改良にも注力したほか、牛乳やバターなど酪農製品の製造技術の確立を図りました。さらには、えん麦、とうもろこし、じゃがいも、大豆などの農作と地道な植林事業が実を結び、開墾当初は見渡す限りの荒野だった大地は、長い年月の末に、緑の森に塗り変わったのでした。

久彌は毎夏、家族を連れて農場に滞在しました。1年ぶりに見る農場の子どもたちの元気な姿に目を細め、牛や馬の成長に心を満たされました。晩年は成田に近い末広牧場で過ごした久彌ですが、朝に夕に岩手山の麓での日々を思い出していました。小岩井は心の故郷だったのです。

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