三菱商事

第21話 小彌太編 東京生まれの“いごっそう”~信念を貫いた三菱四代目社長

あゆみ 「挑戦」の原点

第21話 小彌太編 東京生まれの“いごっそう”~信念を貫いた三菱四代目社長

三菱四代目社長・岩崎小彌太が進めた組織の改編と、GHQの財閥解体にまつわるエピソードを紹介します。

1916年、三菱四代目社長に就任した岩崎小彌太。満を持して行った改革が、各事業部を三菱合資会社傘下の株式会社として独立させることでした。株式を公開し、岩崎家以外の資本を加えることで、国利民福に寄与することも目的の一つ。旧三菱商事をはじめ、多くの会社が独立していきました。

改革を進める一方、小彌太は開発に膨大な費用と時間を要する造船と航空機製造は、技術面や設備面で共通点が多いことからいったんは分割した事業だが統合した方が良いと考えます。社内外に反対意見がありましたが、小彌太は「国に対する重い責任を考えるなら、組織の一体化は急務である」との強い意志で、1934年、造船に重機械、航空機などを加え「三菱重工業株式会社」に統合します。「重工業」は今でこそ普通名詞ですが、英語の「Heavy Industries」の直訳で、小彌太の造語でした。

1941年、太平洋戦争が勃発。次第に戦局が厳しくなる中、多くの三菱の工場が被害を受けましたが、小彌太は、現場の社員を激励することが社長の責務と考え視察を続けました。

1945年、日本の敗戦により進駐してきたGHQは、財閥本社の自発的解散を要求します。他の財閥がすぐに受け入れたのに対し、「顧みて恥ずべき何物もない」と三菱だけは抵抗します。戦時中の無理がたたり体調を崩していた小彌太ですが、病を押して三菱本社の自発的解散はあり得ないことを主張し続けました。しかし状況は変わらず、小彌太の入院中に開かれた三菱本社の株主総会で、本社解散の手続きをやむなく受け入れたのでした。

死を前に小彌太は、「本社はいかなる形になろうとも、我らの永き精神的結合は永続し、三菱の事業は三菱の精神をもって経営されることを信じて疑わない」とのメモを残しました。時代や状況が変わろうとも、信念を貫き、三菱を率いる者としての使命感を失うことがなかった小彌太。歴代社長でただ一人の東京生まれでしたが、その姿はまさに土佐の血が流れる気骨のある男・「いごっそう」でした。

こぼれ話個性尊重――小彌太が重んじた人格教育

小彌太の中学時代からの親友・中村春二は、1906年、東京・本郷の自宅に私塾成蹊園を開きました。その後、池袋に個性尊重を掲げた成蹊実務学校(今日の成蹊学園)を設立。師弟の心が直接触れ合う人格教育を目指しました。

この学校の創設に寄与した一人が小彌太です。1919年には理事長に就任し、卒業生の就職にも気を遣いました。多感な時期を英国で過ごし、個性を尊重した英国の学校教育への憧れを持っていた小彌太。中村が目指す人格教育に共鳴したからこそ、生涯にわたり支援を続けたのでした。

写真提供:三菱史料館

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