三菱商事

第16話 おごらず、他者への配慮を忘れない経営者・久彌

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第16話 おごらず、他者への配慮を忘れない経営者・久彌

祖母・美和の残した訓戒(「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」)の教えを最も色濃く受け継いだ、三菱三代目社長岩崎久彌のエピソードを紹介します。

岩崎彌太郎の長男久彌が生まれたのは、明治維新の3年前。岩崎家の家風に大きな影響を与えたのは彌太郎の母・美和ですが、美和の方針は彌太郎の嫁・喜勢を通じ、孫の久彌の教育に引き継がれました。海運会社・三菱商会を旗揚げした父のもとに家族が合流したのは、久彌8歳の時。大阪の新居に行くと、前の住人が荷物をまとめきれずにいました。父の会社の若い衆が荷物を運び込み、結果として弱者を追い出すような形に。この光景を久彌は心の痛みとして生涯忘れませんでした。翌年、彌太郎は東京進出。家族も共に、陸路東海道を進み、12日目に東京入り。実によく歩いた久彌を見て美和は「この孫はものになる」と思いました。

久彌は親元を離れて下宿し、慶應義塾に通学。3年後、三菱商業学校に転じ、英語や簿記、世界史、経済、法律などを英文教科書で学びました。このころ、日本の将来を担う多くの若者が英米に留学。久彌も彌之助の指示で1886年、米国に。

一般の学生と同じくフィラデルフィアの下宿に入り、まずは英語を勉強、ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールに進んで主に財政学を学びました。自由な学生生活を満喫し、後に駐日公使も務めたロイド・グリスコムとは特に交友を深め、卒業にあたり一緒に欧州を旅行。大西洋航路では、グリスコムは上等船室、久彌は船底の下等船室でした。旅も終わりに近づき、ペテルブルクの毛皮店で久彌は日本への土産を購入。明治の富豪の御曹司に餞別をくれた人は多かったのでしょう。久彌が高価な毛皮を大量に注文するのを目にしたグリスコムは仰天し、述懐しています。「カーネギーとロックフェラーを併せたような偉大な地位に就く男とは、その時までこれっぽっちも思わなかった」。久彌はフィラデルフィアでは極めて普通の学生だったのです。

祖母・美和が残した訓戒に、「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」との1行があります。原点を忘れるな。岩崎四代の心の底にある戒めです。久彌は彌之助の後を継ぎ成長期の一大企業集団を統率したが、若いころから決しておごらず、他者への配慮を忘れない経営者でした。

こぼれ話久彌が暮らした茅町本邸物語

久彌が暮らした東京の茅町本邸では、関東大震災や東京空襲の際に率先して被災者を受け入れ炊き出しもしました。空襲で焼夷弾が屋敷近くに落ちた時、孫が久彌を防空壕に導こうとして怒鳴られました。「みんなが火を消そうとしている時、防空壕になんか入っていられるか!」。敗戦後、茅町本邸は占領軍に接収され、家族は日本家屋の一角へ。1948年秋には千葉県成田の末広農場に移ることに。いよいよ家を離れる時、久彌は1873年に一家が大阪に着き、前の住人を結果として追い出す形になったことを思い出しました。「あの時と逆になったなぁ」。
茅町本邸はその後、司法研修所となり、現在は『旧岩崎邸庭園』として一般公開されています。

ページ上部へ