1954年~ 第2話 次代の飛躍に向けた基礎固め ~世界ネットワークを拡充
社長高垣勝次郎が在任中の6年間に進めた海外拠点の整備について振り返ります。
新生三菱商事は1954年7月、現在の丸の内二丁目ビルの位置に本社を置き、資本金は6億5,000万円でスタート、1954年度末には25億円、1956年度末には50億円に増資しました。1958年には、現在の三菱商事ビルの地に三菱地所が建設した「三菱商事ビルヂング」が竣工し本社を移転しました。
高垣勝次郎社長が積極的に取り組んだ施策の一つに、海外拠点の整備があります。発足と同時に、中南米、欧州、中東、アジアの各地域14カ所に駐在員を配置したほか、米国には独立法人として米国三菱商事会社(MIC)を設立。ニューヨークに本店、サンフランシスコに支店を開設しました。
日本経済の復興を背負い、輸出振興の先鋒として、さまざまな困難を乗り越え、海外進出の礎を築いていきます。1955年3月時点での海外場所※は23に拡大。発足時には拠点がなかったアフリカにも駐在員を配置するなど、1960年3月には51場所まで増加しました。このうち24場所が独立法人とその付属場所で、1961年ごろのMICは、ニューヨーク本店だけで200人、管下の場所を入れると320人を擁する大所帯となっていました。
海外拠点の整備を進める一方、高垣社長は輸出の伸長にも尽力します。1954年に東南アジア、1956年に米国、カナダ、1957年には欧州と中東を視察するなど、各国の事情を見聞して回りました。アジアではインドの将来性に着目。技術指導の強化を図ることとしました。1955年9月、カルカッタ(現・コルカタ)に「東南アジア三菱技術室」を設置し、三菱重工、三菱電機、三菱化成(現・三菱化学)との連携で技術者を派遣。インドにおける三菱グループの事業発展への道を切り拓いたのでした。
※ 三菱商事では当時、海外現地法人を含め、国内外の拠点を「場所」と総称していました