三菱商事

1954年~ 第4話 東京五輪を追い風に日本の発展を牽引 ~高度経済成長の波に乗り、新たなビジネスモデルを形に

あゆみ 「挑戦」の原点

第4話 東京五輪を追い風に日本の発展を牽引 ~高度経済成長の波に乗り、新たなビジネスモデルを形に

荘清彦社長

荘清彦社長時代のエピソードを振り返ります。

荘清彦副社長が社長に就任した1960年、日本政府は貿易・為替自由化計画大綱や所得倍増計画を発表。4年後に開催される東京オリンピックに向け、都内のみならず日本各地において種々の建設・整備が進み、日本では高度経済成長が始まろうとしていました。

一方で60年代初頭は、一部の学者やジャーナリストの間で「商社斜陽論」が議論された時代でもありました。メーカーが力を付け、独自の販売網を持つようになると、商社に頼る必要はなくなるという、急速に成長する日本経済をメーカー側からのみ見る見解が新聞などを賑わせたのです。しかし商社は、環境の変化に応じて機能を創造し、日本の発展を牽引していきました。

この頃から、三菱グループの結束は一段と強固なものになっていきます。1964年6月、戦後分割されていた三菱重工業3社が合併し、新しい「三菱重工業」が発足。この年の9月には、三菱系39社をメンバーとする三菱広報委員会が設置され、荘社長が初代委員長に就任。三菱グループの連携を強化していきました。

東パキスタン(当時)のダーウッド社向け竹パルププラント。竹パルプから人絹(レーヨン)とセロファンを製造するプラントを同国に建設するこのプロジェクトは、三菱商事が窓口となり契約をとりまとめた(1962年)

高度経済成長の波に乗り、重化学工業を中心とする産業活動の活発化に加え、東南アジアなどへのプラント輸出が増加、さらに海外での資源開発といった長期プロジェクトが拡大し、大口契約の傾向を強めたこの時代。三菱商事は、三菱グループの技術力を背景に、世界各地で機械・プラントなどの大口契約を次々と獲得しました。さらに、さまざまな分野で海外進出の推進役として、関係する数多くの企業をオーガナイズし、現地でのプラント稼働まで持っていくという三菱商事の新しいビジネスモデルを形にしていきました。日本初の大規模LNGプロジェクトとなったブルネイLNG開発プロジェクトの交渉がスタートしたのもこの頃でした。

三菱商事は国内外のネットワークを拡大し、世界を股にかけたビジネスをさらに展開していったのでした。

 

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