三菱商事

第5話 二転三転、時代の激流にもまれる

あゆみ 「挑戦」の原点
高知県安芸市内にある 彌太郎

第5話 二転三転、時代の激流にもまれる

岩崎彌太郎と吉田東洋のエピソードなどを紹介します。

彌太郎は出獄後、高知城下に近い村に移り寺子屋まがいのことをして生計を立てます。その後、追放赦免・家名回復となりましたが、そのまま吉田東洋の私塾・少林塾(別名 鶴田塾)に入門しました。東洋は開明派として全国に知られた土佐藩の重臣。たまたま謹慎中で、塾を開いていました。彌太郎はその少林塾で東洋に目をかけられ、後藤象二郎とも深い親交を持ちます。

東洋は要職に復帰後、藩政改革に着手。階級制度を改革して人材登用の道を開き、開国を想定し海運、貿易、殖産興業の施策を推し進めます。

1859年、彌太郎は、海外事情、特に清に対する列強の動きを把握するため、突然長崎出張を命じられる。しかし漢学に秀でた彌太郎も、英語やオランダ語はさっぱり。通訳を介してまずは人脈づくり。外国人を料亭に招いて、土佐流のドンチャン騒ぎ。世情には詳しくなりましたが、列強の動向や海外事情の調査までには至りません。

そのころ江戸では桜田門外の変が。1860年3月のことでした。時局は切迫。しかし彌太郎は散財してしまい、土佐へ戻って金策に走り回る。私用と目される分は返済しますが、無断帰国を断罪され罷免。傷心の思いで井ノ口村に帰ります。

土佐では、開国か攘夷か、改革か現状維持かで激しく争いが。その最中、1862年東洋暗殺。東洋一派と目される者が藩政中枢から駆逐されます。しばらく悶々としていた彌太郎に、ある日、藩主の江戸参勤に同行せよとのお達し。彌太郎は思います。「あしもまだまだ、ふてたもんぢゃないぜよ」。

ところが途中兵庫で、隊列を離れたとの理由で帰国命令。弁明も聞き入れられず、彌太郎の立場はまたまた暗転。東洋暗殺の復讐を恐れた者たちにはめられたのでした。不本意な帰国でしたが、同じ東洋門下で同行を続けた者は、大坂に着いたところで惨殺。人生何が幸いするか分かりません。

彌太郎は井ノ口村に帰り、農事に精を出し、安芸川沿いの低地に新田を開発。1865年には、かねて申請中の官有林払下げ許可が。そして長男の久彌が誕生。郡の下役に登用されました。一方、後藤象二郎が藩の要職に返り咲き。時代はまたもや動き出したのでした。

こぼれ話

彌太郎と鳥カゴ

『龍馬伝』の前半で彌太郎は、鳥カゴを背負って行商していました。父・彌次郎が大けがの後、時間つぶしに鳥カゴを作ったのは史実ですが、彌太郎が鳥カゴを背負って売っていたという記録はありません。

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