第6話 龍馬と共に見た夢
第6話 龍馬と共に見た夢
岩崎彌太郎と坂本龍馬のエピソードを紹介します。
1867年、再び長崎に赴任した彌太郎は後藤象二郎を助け、土佐藩のために金策に走り、蒸気船や武器弾薬を買い付け、さらには坂本龍馬の海援隊の活動をも支えました。彌太郎と龍馬の出会い、それは龍馬暗殺の年でもありました。経済官僚として奔走する彌太郎と自由な立場で政治改革を志向する龍馬。活動内容は大いに違いましたが、常に明日の日本を思い、広い世界を意識していた点では共通していました。彌太郎の日記を見ると、「天気快晴…午後坂本龍馬来たりて酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とあります。肝胆相照らすものがあったのでしょう。将来海外に雄飛する夢を語り合ったのかもしれません。
土佐藩の長崎における経済活動の拠点となったのが、「長崎土佐商会」(正式名称:土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)。彌太郎は後藤象二郎に次ぐ2代目の主任として、ここでらつ腕を振るいました。長崎市内の浜町アーケードの入り口、長崎電鉄「西浜町」停車場の脇に、「土佐商会跡」の石碑が残されています。 土佐商会が、坂本龍馬率いる海援隊の資金援助をしたために、石碑には「海援隊発祥の地」という言葉が添えられています。
時代は風雲急を告げていました。雄藩は討幕に向け準備。京都では土佐藩主・山内容堂らが会談し策を練るがまとまりません。容堂は象二郎と龍馬に意見を求めました。二人は急遽京都に向かいます。上洛する龍馬と象二郎を見送った彌太郎は日記にこう記しました。「(1867年6月)9日、雨。…午後(象二郎と龍馬は)睡蓮船(のちの藩船夕顔)に乗る。…2時、これ出帆なり。余および一同これを送る。余、不覚にも数行の涙を流す…」。
この船の中で龍馬は、いわゆる『船中八策』をまとめます。「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機公論に決すべきこと……」で始まる、新しい国のグランド・デザイン。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から将軍・徳川慶喜への建白書となって、大政奉還として歴史を大きく動かすことになります。
長崎の後事は彌太郎に託されました。海援隊操船の大洲藩のいろは丸が、紀州藩の船と衝突し沈没した事件では、事務能力を活かし、紀州藩と粘り強く交渉。多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒を見ます。また、英国人殺傷事件で土佐藩にあらぬ嫌疑がかかると英国公使を相手に一歩も妥協しませんでした。一方、龍馬は、京都において1867年12月10日、かの近江屋事件で無念にも暗殺されます。新しい日本のあり方を建策し、自らは七つの海に乗り出すことを夢見ていた龍馬。龍馬の夢は実現しませんでしたが、日本変革への熱き思いはこの世に残り、龍馬の志を継承するかのように彌太郎は、グローバルに事業を展開。日本の近代産業の発展に貢献したのでした。