三菱商事

第12話 彌之助の鉱山獲得積極策

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第12話 彌之助の鉱山獲得積極策

三菱二代目社長岩崎彌之助のエピソードを紹介します。

自動車も飛行機もなく、鉄道網もまだまだ先だった時代、海運は物流の根幹でした。その海運事業を切り離した三菱は、1886年に三菱社を発足、経営の中心に鉱業を据えました。石炭や銅は殖産興業の原動力であり、外貨に変換しうる資源。鉱業は国家と共に歩む三菱の哲学にも合いました。1881年に買収した高島炭坑は、官営の三池炭坑とならぶ最優良炭坑に育ち、出炭量は全国の20%。しかし埋蔵量に限りがあり、7年あまりで掘り尽くすと危惧されていました。1888年、三池炭坑が払い下げ。競争入札が行われ、もともと扱いのあった三井が僅差で競り勝ちます。敗れた三菱はやむなく筑豊に目を転じ、中小炭坑を次々に買収して行きました。筑豊は埋蔵量が豊富。三菱は設備投資を積極的に行い、特に採炭、排水、選炭などの現場に最新の技術を導入しました。

金属鉱山については、彌太郎の時代、1872年にまず岡山県の吉岡鉱山を買収。1881年に削岩機を導入してから本格的採鉱が可能になり、各地の鉱山の再開発に技術的な見通しがつきました。彌之助は鉱山獲得に積極策をとり、明治10年代に7山、20年代には尾去沢をはじめ、猿渡、槙峰、面谷など40山を買い取りました。坑道の開削、坑内運搬や精錬工程に新技術を導入し、生産は飛躍的に増大。尾去沢鉱山の歴史は慶長時代までさかのぼりますが、彌之助による買い取り以降、近代鉱山として90年に及ぶ稼働を続けました。
炭坑、鉱山事業は、1918年、三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)として合資会社から独立します。また当初売炭部と称していた営業部も、同じ時期に三菱商事になりました。

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