三菱商事

第13話 彌之助を支えた多彩な人脈

あゆみ 「挑戦」の原点
静嘉堂文庫

第13話 彌之助を支えた多彩な人脈

三菱二代目社長岩崎彌之助が進めた、事業の多角化と人材登用についてのエピソードを紹介します。

明治18(1885)年、郵便汽船三菱会社は海運事業のすべてを日本郵船に移譲し閉鎖しました。三菱には海運以外の事業がありました。吉岡鉱山、高島炭坑のほか、第百十九国立銀行や千川水道、長崎造船所などです。ただしこれらは、「岩崎家の事業」ということになっていました。郵便汽船三菱会社は(政府の破格の補助を受けていたため)海運以外の事業を禁止されていたからです。彌之助は翌年、東京府知事に書状をしたためます。

「弊社は、先般海運事業を日本郵船会社に譲渡いたしたるも、今後は社名を単に『三菱社』として、高島炭坑ならびに長崎造船所などの事業を行う所存ゆえ、念のためお届け申し上げる。 三菱社長 岩崎彌之助」

これを機にすでに育んでいた多角化の苗が力強く成長を開始します。彌之助を支えるのは彌太郎以来の多彩な人脈。彼は近代的な企業にとってキーになるのは優秀な人材の確保だということを認識していました。福沢諭吉の慶應義塾から荘田平五郎(のちの管事)、山本達雄(のち日銀に転じ総裁)など多くの人材をリクルート。東京帝国大学関係の学生も迎え入れ、南部球吾(管事兼炭坑部長)、近藤廉平(日本郵船社長)、末延道成(東京海上火災保険会長)、加藤高明(政界に転じ首相)など、いずれも三菱のみならず各界をリードすることになりました。

彌之助は、外国人の幹部登用についても前向きでした。デンマーク人フレデリック・クレブスは明治6年入社の鉱山技師。当初は炭坑の採掘を指導しましたが、後に本社に呼ばれ、現在で言えば技術ならびに国際人材担当役員とも言える地位にまで上りつめました。もともと三菱には外国人社員が多く、明治15年には従業員2500人中400人を数え、各支社には日本人と外国人の支配人が1名ずついました。彼らは、初期三菱において重要な役割を果たし、彌之助の推進した「事業の多角化」に貢献しました。

こぼれ話彌之助の文化遺産

彌之助は多趣味の人でした。東洋文化に格別の愛情を持ち、美術品や和漢の古典籍収集はもとより、建築、造園、園芸など、趣味は数えればきりがありません。彌之助の収集品を収めた静嘉堂文庫は、大正13(1924)年に息子の三菱四代目社長・小彌太によって世田谷の現在地に移設され、『曜変天目茶碗』など小彌太の収集品が加わりました。昭和15(1940)年に財団法人になり、研究者や一般に開放されています。

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