三菱商事

第14話 智将・彌之助の決断~近代日本を象徴するビジネス街の建設へ

あゆみ 「挑戦」の原点
関東閣

第14話 智将・彌之助の決断~近代日本を象徴するビジネス街の建設へ

三菱二代目社長岩崎彌之助の、丸の内買い取りにまつわるエピソードを紹介します。

明治22(1889)年、陸軍省は麻布に近代的な兵営を建てようとしていました。見積り約150万円。陸軍予算の1割以上。軍事費の大幅削減が叫ばれる中、浮上したのが丸の内の陸軍用地売却による資金調達でした。ただし、丸の内は宮城の正面ゆえ、きちんとした地域開発ができる先への一括売却が望ましい。折からの不況で余裕のある業者は少なく、東京市の買い取りも検討されますが、政府売却希望価格が市の年間予算の3倍。とても手が出ません。見通しの立たないまま16区画に分け入札され、3区画を除いて三菱が最高値をつけますが、全区画合算しても、政府の希望価格にはるかに及ばず、キャンセルに。松方蔵相は彌之助を訪ね、政府希望価格での買い取りを懇請します。彌之助は熟考の末、決断しました。「国家あっての三菱。お国のために引き受けましょう」。

明治23年3月契約。約11万坪、128万円。三菱の経営の根幹を揺るがしかねない大変な金額でした。しかし、智将・彌之助、政府を助けるというだけの理由で決断したのではありませんでした。荘田平五郎と末延道成が、出張先の英国から「ロンドンのようなオフィス街」の建設を提案。彌之助の中でイメージが少しずつ膨らみ始めていたのです。それは、近代日本を象徴するビジネス街の誕生を意味する決断でした。

明治18年の社長就任以来、彌之助は各地の鉱山を手中にし、炭坑は高島から筑豊にも進出しました。長崎造船所を取得して設備を拡張し、一方、金融分野にも事業展開、さらには丸の内オフィス街の建設に着手。明治26年には商法が施行され、各種事業も個人経営から組織経営に脱皮します。彌太郎の長男久彌も5年余の米国留学から戻り、三菱社の副社長として経験を積み2年になっていました。彌之助は三菱社を商法にのっとり三菱合資会社にします。久彌との折半出資。社長には久彌を据え、自らは「監務」という今で言えば会長ないし相談役の立場に退きました。彌之助42歳、久彌28歳のときのことです。彌之助は、彌太郎の遺言を忠実に守り、自分はあくまでも久彌が育つまでのピンチヒッターと位置付けていました。だからこそ行われた早めの交替劇だったのです。

こぼれ話彌之助が残した三菱の迎賓館

彌之助は早くから高輪の高台の、伊藤博文の屋敷跡を購入。明治36(1903)年、駿河台から日本家屋を移築、併行してジョサイア・コンドル設計の煉瓦造り石貼りの二階建て洋館の建設に着手します。明治40年、彌之助夫妻は駿河台から高輪の日本家屋に移りますが、この頃から体調を崩し、東大病院に入院。懸命の治療の甲斐もなく、翌春、帰らぬ人となりました。完成した洋館は永らく岩崎家と三菱の迎賓館として使われ、昭和13(1938)年に三菱社に移管。その際、小彌太社長により「開東閣」の名がつけられました。太平洋戦争の空襲でも洋館は内部焼失にとどまり、昭和39年に三菱グループのゲストハウスとして復活。その後リニューアルがなされ、高い芸術性と豪華な雰囲気の中に21世紀の賓客を迎えています。

ページ上部へ