三菱商事

第15話 ジョサイア・コンドル

あゆみ 「挑戦」の原点
明治の趣を今に残す旧岩崎邸庭園

第15話 ジョサイア・コンドル

三菱の顧問になり、野原だった丸の内にロンドンのような近代的ビジネス街を建設した、ジョサイア・コンドルを紹介します。

岩崎彌之助、享年57。世田谷の静嘉堂のかたわらにある岩崎家霊廟に眠ります。この霊廟を設計したのはジョサイア・コンドルでした。建築家コンドルは、ロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるバージェスの設計事務所で腕を磨き、明治10年(1877年)、日本政府の招聘を受け24歳で来日しました。

コンドルは工部大学校(現在の東京大学工学部建築学科)で教育にあたるかたわら、工部省に属して上野の博物館、鹿鳴館など政府関係の諸施設を設計、独立してからは、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家迎賓館(現綱町三井倶楽部)、島津忠重邸(現清泉女子大学)、古河虎之助邸(現古河庭園)などがあり、岩崎家ないし三菱関係のものも数多く手掛けました。

明治23年にはコンドルは三菱の顧問になり、丸の内の原っぱにロンドンのような近代的ビジネス街を建設することになります。丸の内建設事務所の主任技師に工部大学校時代の教え子曽根達蔵を招き、三菱の管事である荘田平五郎と丸の内オフィス街の基本構想について議論します。結果、「20間(約36メートル)の道路に合わせ、建物は軒の高さ50尺(約15メートル)の三階建て赤煉瓦造りとし、その上に急勾配のスレート葺き屋根を付ける」ことにしました。三菱一号館は明治27年に竣工。以後、二号館、三号館と続き、一丁倫敦と呼ばれるロンドン風のオフィス街が形成されていきました。

日本の近代建築に残したコンドルの足跡は不滅ですが、その真価が発揮されたのは工部大学校での教育・人材育成でしょう。日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曽根達蔵など、錚々たる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献したのです。

こぼれ話岩崎家に愛されたコンドルの邸宅

コンドルの手がけた三菱の仕事には、深川別邸(関東大震災で消失)、茅町本邸、高輪別邸、箱根湯本別邸など、岩崎家の邸宅もあります。茅町本邸は岩崎久彌の邸宅で、コンドルは久彌が留学していた米国の東海岸すなわち『風と共に去りぬ』の舞台のイメージを盛り込んで木造に設計し直しました。戦後は国の所有となり、現在は東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開されています。高輪別邸は現在の開東閣。完成を待ちきれない彌之助は、駿河台から敷地内に移築した日本家屋に移り住み、洋館完成の日を指折り数えましたが、癌の進行は待ってくれませんでした。彌之助の無念を知るコンドルは、後に心を込めて玉川の霊廟を設計しました。

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