三菱商事

第17話 久彌、「組織の三菱」へ舵を切る

あゆみ 「挑戦」の原点

第17話 久彌、「組織の三菱」へ舵を切る

三菱三代目社長岩崎久彌の、事業の多角化、事業部制への移行にまつわるエピソードを紹介します。

1891年、久彌は5年間のフィラデルフィアでの留学を終え帰国。米国は石炭や石油、鉄鋼などを中心に産業が発展し、カーネギーやロックフェラー、モルガンといった大資本家が次々に誕生した時代でした。一方、日本も、帝国大学創設、憲法発布、議会の開会など、近代国家としての歩みを進めていました。1893年には商法が整備され、三菱社も合資会社に改組。これを機に久彌は、28歳で社長に就任。以降、久彌が社長を務めた20余年は、日清・日露の戦争を間に挟んだ、日本の近代産業の勃興と発展の時期でした。

久彌は幹部たちの意見に耳を傾け、彌之助が進めた事業の多角化を、一つ一つ確実なものにしていきました。収益の大半を上げた鉱業部門では、筑豊や北海道の炭坑のほか各地の金属鉱山の買収を進め、大阪の精煉所も傘下に。石炭や銅の生産は伸び、国内販売はもとより輸出攻勢が掛けられました。成長部門の造船は、長崎造船所の近代化を図り、神戸と下関に造船所を建設。丸の内にオフィス街を建設して不動産業に乗り出し、銀行や商事部門も業績を伸張させました。また、化学工業の端緒になるコークス製造や朝鮮半島北部での製鉄を手がけ、麒麟麦酒などの起業にも参画しました。

1908年、久彌は事業の拡大と厳しい経営環境をにらみ、現場にコストマインドを徹底させるため、一定の資本枠を与えるなど各部への権限移譲を断行。銀行部、造船部、庶務部、鉱山部、営業部、炭坑部…。最終的に合資会社は8部体制となりました。今日にいう事業部制の走りで、「個々の事業はそれぞれの専門家に責任を持ってマネージさせる」という久彌の意志の表れ。彌太郎以来の「…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」(『三菱汽船会社規則』第一条)というワンマン経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮でした。これこそが岩崎四代による経営の、起承転結の「転」の部分であり、「組織の三菱」への分岐点だったとも言えます。

こぼれ話麒麟麦酒を支えた久彌

キリンビール

明治の初めからビールを造っていたスプリング・ヴァレー・ブルワリー社を、横浜在住の外国人たちが岩崎彌之助ら財界人の出資も得て買収、ジャパン・ブルワリー社としました。当時ビールは日本人にはあまり普及していませんでしたが、総合代理店の明治屋は1888年に「キリン」のラベルで一般向けに販売。明治屋二代目社長がジャパン・ブルワリー社の買収を計画し、中国視察に赴く久彌を追い掛け、上海航路の船上で直談判、支援の約束を取り付けました。1907年、買収が実現され、明治屋と岩崎家に日本郵船も加わり麒麟麦酒株式会社が設立。関東大震災後、横浜の鶴見に新工場を設立し、尼崎、仙台、広島のほか、朝鮮半島や満州にも展開。ビール瓶型ボディーの宣伝カーを走らせ、世間の話題をさらいました。

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