三菱商事

第18話 久彌編 鉄道、農業、電力…“国”の礎に心血を注ぐ

あゆみ 「挑戦」の原点

第18話 久彌編 鉄道、農業、電力…“国”の礎に心血を注ぐ

三菱三代目社長・岩崎久彌が情熱を注ぎ、その時代に役割を果たした事業にまつわるエピソードを紹介します。

日本最初の鉄道が新橋-横浜間に開通したのは1872年。その後、鉄道建設は国造りの急務として、まず国によって東海道線が着工されました。やがて民間にも門戸が開放され、海運の覇者・三菱をはじめ数多くの事業者が民営鉄道の建設に参画しました。1881年、日本鉄道会社が三菱二代目社長・彌之助らの出資で設立され、今の東北本線に当たる上野-青森間の鉄道を建設し、1891年に開通しました。三菱はその後も数々の民営鉄道事業に参画します。1901年全通の山陽鉄道(現在の山陽本線)をはじめ、九州鉄道(鹿児島本線、長崎本線)や筑豊鉄道(筑豊本線ほか)、そして北越鉄道(信越本線)など…。しかし1906年、多くの反対を押し切って鉄道国有法が施行され、三菱の鉄道事業は終わりを告げました。

話は変わって1887年、三菱は米を会社組織で作る事業を新潟県で発足させました。小作人数千人を擁し、広大な農地で種子や肥料、農具の貸し付けから農業教育まで組織で対応。明治後期には期待していた成果を上げ始めました。しかし、この頃から全国の農村の荒廃は深刻になり、至るところで小作争議が勃発。会社組織による米作は、社会の流れに反するものとなり、撤退を余儀なくされました。

余談になりますが、久彌が留学先の米国から持ち帰った多くの書籍は、そのほとんどが農業や牧畜に関するものでした。それほど農牧に思い入れがあった久彌は、国内だけでなく、海外にも目を向けました。東南アジアから南米まで。朝鮮半島では小作人3000人規模で、朝鮮米の改良と増産に力を注ぎ、マレー半島ではゴム、ブラジルではコーヒーの大規模農園を開設しました。

さらに、IPP(民間発電事業)ともいうべき電力事業にも情熱を注ぎました。東京電燈会社への売電を目的に、猪苗代水力電気株式会社を1911年に設立。発電所の全体設計は三菱神戸造船所電機工場のエンジニアが担当しましたが、当時の日本の技術はまだ発展途上で、スウェーデン製の水車、英国製の発電機、そして米国製の変電設備が導入されました。この計画が持ち上がった当初は、「発電規模があまりに大きく、東京市だけでは消費しきれない」との議論もありましたが、久彌は「こういうことは将来を見越してやるものだ」と、エンジニアたちの計画を支持。東京は予想以上の速さで発展し、1915年の送電開始時には、ただちに増設工事に着手しなければなりませんでした。日本産業の飛躍的な発展と猪苗代水力電気の成功に触発され、電力事業が日本各地で勃興しました。猪苗代水力電気は1923年に東京電燈と合併し、三菱は電力事業から撤退しました。

このほかの公共事業では、三菱初代社長の彌太郎が始めた東京の小石川、白山、本郷方面への水道事業があります。これは1908年に久彌がすべてを東京市に譲渡して終了しました。

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