三菱商事

第20話 小彌太編 優れた経営へと導いた“潜龍窟”での絆

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第20話 小彌太編 優れた経営へと導いた“潜龍窟”での絆

三菱四代目社長・岩崎小彌太が、内気な少年から活発な青年へ、そして三菱の後継者として成長していく過程を紹介します。

三菱四代目社長となる岩崎小彌太は、1879年、彌之助の長男として東京で生まれました。中学生になり、父・彌之助が設立した「潜龍窟」と呼ばれる学寮に入った小彌太は、同世代の仲間と共に、質素でしつけの厳しい共同生活を送り、寮生たちとの絆を深めていきました。

小彌太は1899年に帝国大学へ入学。しかし、卒業を待たずに英国に留学しました。ケンブリッジ大学では、教授や学友たちとの付き合いの中で、それまで内気で温厚だった少年は、積極的で活動的な青年へと成長していきました。

小彌太は著名な教授の元で政治経済学などを学び、英国流の国際感覚を身に付けていきます。その影響もあり、政治家になる夢を抱いて帰国しましたが、彌之助の強い意向で三菱合資会社に入社。小彌太は副社長として11年間、14歳年上のいとこである久彌社長を補佐し、ビジネスの経験を積んでいきました。当時の日本は近代工業が急速に発展した時代。三菱は特に鉱業と造船の分野で大きなシェアを占めるようになりました。

1916年、小彌太は36歳で久彌から社長の座を譲り受けます。その時の三菱の幹部の中には、若き日に潜龍窟で苦楽を共にした仲間たちがいました。彼らは、社長である小彌太に対しても遠慮せずにはっきりと意見を述べ、議論し、三菱を健全な経営判断へと導きました。厳しい共同生活で生まれた絆は一生涯続きます。潜龍窟は、まさに人材育成の場だったのです。

こぼれ話多趣味の人・小彌太

多才な趣味を持っていたことで知られる小彌太。俳句や絵、書道に茶、チェロに陶器など…各分野への深い造詣を活かし、生涯を通じて幅広い分野の文化支援に携わりました。彌之助と小彌太のコレクションである約20万冊の古典籍と約6,500点の東洋古美術品を収めている静嘉堂文庫を1924年に現在の東京・世田谷に移設し、1940年に財団法人としたほか、「野薔薇」や「赤とんぼ」などの作曲で有名な音楽家・山田耕筰を一貫して支援し、西洋音楽を日本に広めるため、東京フィルハーモニック・ソサエティーの設立に協力。明治から大正時代にかけて数多くのコンサートを開催するなど、長年にわたり音楽家とオーケストラの育成に力を入れたのでした。

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