第2話 三菱の根底にあるもの。それは"義"である
第2話 三菱の根底にあるもの。それは"義"である
三菱商事(MC)のOBで三菱史アナリストの成田誠一さんに、岩崎彌太郎とはどんな人物だったのか、三菱に受け継がれてきた価値観とは何かなどについてお話を伺いました。
『龍馬伝』の岩崎彌太郎は、これ以上ない汚いメイクと衣装。私の周りでも憤る人が多くいます。しかしドラマはドラマで、何でもありですから、歴史的事実とは別です。
生来、頭の回転が速く、とびきりの負けず嫌い、向学心が強く、※豪邁不羈(ごうまいふき)、不屈の敢闘精神、視野の広さなど、一言では表せませんが、特にすごいと思うのは"先見の明"。例えば日本でまだキリスト教がご法度のときに、弟の彌之助を米国留学させている。長崎で外商と付き合い、世界の広さを学び、変革を予知して後継者に国際性を身に付けさせようとしたんですね。彌太郎自身、母親の美和の影響で、極貧の環境にあって学問に志を立て、江戸に出るチャンスをつかんでいます。猛烈な勉強ぶりは目を引くもので、「ありとあらゆる書を読んでおり、集中力は到底われわれの及ぶものではなかった」という同窓の塾生の証言が残っています。
※豪邁=気性が強く人よりすぐれていること。不羈=物事に束縛されないで行動が自由気ままであること。
江戸での勉学は父親のトラブルで打ち切られ、その後の彌太郎の人生は決して順風満帆ではありませんでしたが、1867年、二度目の長崎赴任の好機をつかみます。坂本龍馬と出会ったのもこの時です。2年後、大坂藩邸に異動、九十九商会を監督する立場から経営を引き受けることになり、1873年には三菱商会と改称します。転機となったのは翌年の台湾出兵。兵士や食料品などの輸送の引き受け手がない中、三菱に白羽の矢が立ち、「国あっての三菱」との信念から万難を排して引き受け、見事成功させて政府の信頼を勝ち得たのです。この姿勢は西南戦争でも貫かれ、三菱は日本随一の海運企業に成長していきました。しかし彌太郎は「志した十のうち、一しか二しかできぬうちに」との思いを抱えたまま、ガンでこの世を去ります。50歳の若さでした。長男の久彌が若かったため、いわばワンポイントリリーフのような形で彌之助が継ぎました。