あゆみ「挑戦」の原点 【第3話】
年表で見る彌太郎の足跡
岩崎彌太郎の歩みを年表でご紹介します。
略年表・ストーリー
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0歳(1835年) 誕生
土佐国安芸郡井ノ口村の貧しい家で生まれる。
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ペリー、浦賀に来航(1853) 日米和親条約締結(1854) 19歳~20歳 江戸遊学に
こぼれ話:参考江戸遊学の夢を奥宮慥斎(おくのみや ぞうさい)の従者として実現し、安積艮斎(あさか ごんさい)に学ぶ。
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日米修好通商条約締結(1858) 23歳 吉田東洋の門に
わが家の一大事で江戸から帰国、奉行所に投獄。同房の商人から算術を学び、出獄後は村を出て吉田東洋の少林塾に入門。
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アメリカ南北戦争(1861~1865) 24歳~31歳 長崎派遣/郷士格の回復/土佐藩開成館貨殖局に出仕
藩命で長崎に派遣、金策のため無断帰国したとがで罷免に。郷士株を買い戻し、27歳で喜勢と結婚、長男・久彌が誕生。
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大政奉還(1867) 坂本龍馬暗殺(1867) 王政復古の大号令(1868) 戊辰戦争(1868~69) 32歳 開成館長崎出張所に赴任
再び長崎へ赴き、経済官僚として奮戦。坂本龍馬と出会う。
34歳 開成館大阪出張所へ異動、九十九商会開設
開成館大阪出張所の責任者に抜擢され、土佐藩士設立の九十九商会を監督。
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普仏戦争(1870~1871) 38歳 三菱商会に改称、吉岡銅山を経営
廃藩置県後、九十九商会の経営を引き受ける。「三川商会」に社名変更後、船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」となる。
39歳 東京移転、軍事輸送を受命、三菱蒸汽船会社に改称
40歳 上海定期航路開設、郵便汽船三菱会社に改称、三菱製鉄所創設
横浜・上海間航路が開かれ、外国企業との攻防開始。「第一命令書」発令により三菱は政府御用達に。
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ベルが電話機発明 (1876/アメリカ) 41歳 三菱商船学校設立
海運会社育成が急務に。船員養成を目的に三菱商船学校を設立。
日本初のボーナス
社員の資格ごとに賞与を支給。
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西南戦争(1877) エジソンが蓄音機発明 (1877/アメリカ) 42歳 西南戦役軍事輸送受命
西南戦争における軍事輸送が国家の信頼を得て、一大発展の財政的基盤を築く。
43歳 三菱商業学校設立
実業家育成のための三菱商業学校を開校。
44歳~45歳 東京海上保険会社の設立援助/三菱為替店設立/千川水道会社設立
吉岡銅山入手をはじめ、金融や倉庫業、水道事業、海上保険、生命保険などに参入。
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国会開設の勅諭(1881) 46歳~47歳 高島炭坑買収/明治生命保険会社設立を援助
政府が後押しする渋沢栄一の共同運輸と彌太郎の郵便汽船三菱が対峙。
48歳~49歳 共同運輸開業、三菱と競争/工部省長崎造船所を借用
共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併し、1885年に日本郵船が発足。
50歳(1885年) 2月7日、病のため永眠
50歳で生涯を閉じる。
遺志に従い三菱は彌之助が引き継ぎ、久彌、小彌太が継承、世紀を二度またぎ今日の三菱グループに。
こぼれ話 学問で天下雄飛への道を拓く
教育に一家言を持っていた母・美和は、彌太郎が泣いても一切無視。その結果、負けず嫌いで、向学心が人一倍強い若者に育ちました。学問は貧しくとも頭の切れる少年が世に出る道。彌太郎は、1854年、江戸遊学のチャンスを手にします。村の裏手には、村一番の腕白坊主だった彌太郎が子分を率いてよく登った星神社が。明日は旅立ちという夜、彌太郎は星神社を訪れ、門扉に書き記しました。
「吾れ、志を得ずんば、ふたゝび此の山に登らず」