三菱商事

第2話 三菱の根底にあるもの。それは"義"である

あゆみ 「挑戦」の原点

第2話 三菱の根底にあるもの。それは"義"である

岩崎四代家系図 岩崎彌次郎 彌太郎(三菱創業者) 彌之助(二代社長) 久彌(三代社長) 小彌太(四代社長) 写真提供:三菱史料館

受け継がれた教え"貧しかったころの原点を忘れるな"

彌太郎以降の三菱はどのような歴史をたどったのでしょう。

彌太郎のビジネスはとにかく押し一辺倒でしたが、彌之助は押してダメなら引くことも必要だと、四方八方に情報網を張り、さまざまな知恵を巡らせます。彌太郎以来の多彩な人脈から、外国人も含め優秀な人材を登用。炭鉱や鉱山、造船など、事業の多角化を推進しました。彌之助はまた、久彌に自分自身と同じように米国へ留学させます。
久彌は、南北戦争が終わり、理想に燃えていた米国で、富める者の社会的義務なども体得して帰国しました。3代目を継いだ久彌は、個々の事業は専門家に権限委譲し、今日の事業部制につながる近代的経営への転換を図りました。その一方で、事業の社会性や公正な競争に心を砕き、引退後も農牧事業を楽しむかたわら、社会貢献に気を配りました。

久彌は父・彌太郎が亡くなった年齢である50歳で、36歳の従弟・小彌太に社長を譲ります。第一次世界大戦による活況の中、こういう時こそ後継者に委ねると一人で決断したのでした。父親の彌之助に英国留学を薦められ、ケンブリッジを卒業していた小彌太の国際感覚は群を抜いていました。例えばファシズムが台頭する中、右翼に命を狙われながらも、リベラルな発言を繰り返し、周囲をはらはらさせていました。その姿勢は太平洋戦争勃発後も変わらず、三菱の幹部を集め、「国のために全力を尽くす」と話す一方で、「三菱があるのは英米の仲間のおかげ。将来また盟友として提携して世界の平和、人類の福祉に尽くす機会が来るはず」だと語っています。
三菱の歴史を考える場合、この4人の歴代社長が、それぞれが必要とされる時代に見事に役割分担を果たした点が、大きな特長だと思いますね。

4人に共通しているところ、一貫して変わらなかったものは?

明治の武士道精神、漢字一字であれば"義"だと思います。大義、忠義、正義、信義の義。事業は「国のため、社会のため」が第一、それをやるために経済合理性を確保するのが第二だ、と。この考え方を表現したのが、"所期奉公"という言葉だと思います。

三菱が岩崎家独裁ながら健全な経営を維持できたのは、当主が欧米に留学し広い世界を知っていたことが大きかったと思います。しかしそれ以上に、三菱に必要な人材は三菱で作るという彌太郎以来の流儀から、学寮を建て、久彌も小彌太も多感な少年時代に親元を離れ、後に幹部になった仲間たちと同じ釜の飯を食べ、質実剛健な共同生活をしたことが大きかった。かつての仲間は遠慮なく社長に意見し、議論することで、健全な判断が導かれたわけです。さらにさかのぼれば彌太郎の母の美和が残した家訓の一つ「貧しい時のことを忘れないこと」の影響が大きかったのだと思います。"食うに食えなかった貧しかったころの原点を忘れず、おごってはならない"という教えが、しっかり受け継がれたのです。

三菱史アナリスト 成田誠一

MCで発電プラント輸出や広報を担当。1999年、(財)三菱経済研究所常務理事となり三菱史料館を主管。2007年から現職。三菱史にまつわる多くの文献の執筆、各地での講演に当たる。2010年2月には『岩崎彌太郎物語―「三菱」を築いたサムライたち』(毎日ワンズ)を上梓した。

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