三菱商事

第4話 彌太郎が商売の機徴を初めて学んだ場所とは

あゆみ 「挑戦」の原点

第4話 彌太郎が商売の機徴を初めて学んだ場所とは

岩崎彌太郎の商人としての人生に大きな影響を与えた投獄体験を紹介します。

江戸で遊学のチャンスをつかみ、猛勉強していた彌太郎でしたが、父・彌次郎が庄屋ら近隣農民とのトラブルで重症を負い、急遽帰国することに。雪の箱根を越え、増水の大井川を渡り、通常のおよそ半分の日数で土佐の村にたどり着きます。

彌太郎は奉行所に訴え出ますが、普段から酒癖が悪く、身内の中でも厄介者だった彌次郎に味方する者はなし。証人はことごとく庄屋の味方。収まらない彌太郎は、奉行所の壁に墨で大書しました。「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」。

彌太郎は治安を乱す者として捕えられ、投獄されます。未決のままお上からは何の音沙汰もなく時間だけが過ぎ去るばかり。彌太郎は母・美和に手紙を書きます。「…私の出牢いたし候をお待ちつかわされたく、…決してお元気をお落としつかわされな…」。結局、彌太郎は7カ月間獄につながれたあげく、家名削除・居村追放となりました。この投獄により、反骨精神は彌太郎の骨の髄まで染み込みます。また獄中、同房の商人から算術を学び、商売の機微を教えられました。彌太郎の将来に大きな影響を与える入牢体験となったのでした。

彌太郎生家の管理人その祖先と岩崎家との縁

彌次郎は半身不随、彌太郎は獄、次男の彌之助は4歳。誰にも相手にされない岩崎家を、ただ一人、気遣ってくれたのが、彌次郎の土地を小作していた宅平でした。美和を助け、彌之助を励まし、農作業や力仕事を手伝いました。美和は後年、記しています。「そのとき、幼い彌之助の心持ちは、自然と宅平を親のように頼り、ずいぶん心細く暮らし候」。彌之助は苦しかった当時の様子を次のように回想しています。「母は私を背負い、川のほとりの田地に行き耕しておられた。母は急にめまいがしたのかよろよろと倒れかかり、しばらく地面に座っておられた…」。この宅平の子孫が、現在高知市に在住し、彌太郎の生家を管理し岩崎家代々の墓を守っています。

岩崎彌太郎生家 高知駅から土佐くろしお鉄道『ごめん・なはり線』で「安芸駅」まで約1時間。安芸駅からバス(元気バス 循環一ノ宮線)で「一ノ宮」下車、徒歩3分。生家は、無料で開放されています。駐車場有。大型バスも駐車可能です。生家の向かいには、カフェがあり、彌太郎にちなんだお土産も売っています。(土佐くろしお鉄道を走る「彌太郎号」)
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