三菱商事

第8話 涸れることを知らない起業家精神

あゆみ 「挑戦」の原点
写真提供:三菱史料館

第8話 涸れることを知らない起業家精神

さまざまな事業に取り組んだ岩崎彌太郎の起業家精神を紹介します。

彌太郎のビジネスは海運事業だけではありません。1871年には、船舶代金見合いで紀州の炭坑を取得。翌々年には岡山県の吉岡銅山を入手します。今日の三菱マテリアルの原点です。吉岡銅山では労務問題など困難を克服し、やがて良質な鉱脈を掘り当てました。

彌太郎はさらに、持てる経営資源をさまざまな事業に注ぎ込みます。海運に付随して金融や倉庫業も始めました。1881年には、後藤象二郎から高島炭坑を購入。武家の商法で借金漬けになっていた象二郎を助けるべく福沢諭吉に説得されての購入でした。高島炭坑は最新技術の導入により、後年三菱の重要な収入源になります。基幹産業として早くから着目していた長崎造船所も入手。共同運輸との戦いの真っ最中に政府からの借り受けに成功したのでした。後には(彌太郎没後)それを買い取り、画期的な設備投資によって造船三菱の本丸となりました。

彌太郎が店頭に掲げた「おかめ」の面

店員たちがお客様に温和な顔つきで接し、お客様に和やかな気分を与えるため、彌太郎は、三菱商会の店頭に「おかめ」の面を掲げました。この「おかめ」の面を見た福沢諭吉は「店内に愛敬を重んじさせているのは、近ごろの社長にはできぬこと。岩崎は商売の本質を知っている」と感心したと伝えられています。
写真提供:三菱東京UFJ銀行

成功があれば当然失敗も。例えば、長崎時代から狙っていた樟脳事業。樟脳は火薬の原料になります。土佐藩から単独払い下げを受けましたが、独占反対の声が上がり、我に利あらずと見て3年で撤退しました。同じころ、製糸事業にも着手。一時は200人の工員を雇う盛況を見せますが、市況意のままにならず採算悪化で断念しました。

日本最初のビジネスとしての水道事業にも取り組みます。元禄時代、玉川上水を水源に小石川から浅草に至る一帯に給水する千川水道がありましたが、その後は廃れていました。その復興を目指し、認可を得るや突貫工事を進め、営業開始にこぎつけます。後年、東京市(当時)の公営事業の中に吸収されました。彌太郎の起業家精神は涸れることを知りませんでした。このほか、貿易、海上保険、生命保険、鉄道投資etc…。 近代国家日本の経済活動のさまざまな分野に進出していったのです。

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