あゆみ「挑戦」の原点 【第9話】
彌太郎の生涯を貫いた“明治の武士道”

岩崎彌太郎がこだわり続けた「武士の心」を紹介します。

写真提供:三菱史料館

彌太郎50歳。胃癌の激痛に苦しみながら、本邸(現在の旧岩崎邸庭園)で死を迎えようとしていました。そのころ、三菱は、共同運輸と激闘を演じていました。海運の覇権を賭けたビジネス戦争の真っただ中、三菱の総帥は亡くなります。『岩崎彌太郎伝』は最期の様子を次のように伝えています。

長男の久彌、弟の彌之助、母や姉のほか、会社の幹部たちが枕元に詰めていた。彌太郎の呼吸が乱れだした。一同、かたずをのんで最後を見守る。と、彌太郎、忽然として目をあけ、うなるように話しだした。「…志したことの…十のうちの一か二しか出来なかった」。息もたえだえに続ける。「久彌を嫡統とし…彌之助は久彌を輔佐せよ…。小早川隆景が毛利輝元を輔佐したごとく、彌之助、頼むぞ。… わしの志を継いで、事業をしっかり頼む……」。彌之助がきっぱりと答える。「兄上、彌之助いのちある限り、粉骨砕身努力します。ご安堵下さい」彌太郎はうなずき、弱々しく「もう何も言わん。腹の中が裂けるようだ…」と顔をゆがめ押し黙り目を閉じた。ややあって、目をあけ、さようならをするように右手を少し上げると、静かに永久の眠りについた。

彌太郎の母・美和も、最期の様子をほぼ同じように書き残しています。

「その時、彌太郎から彌之助への遺言がありました。久彌を嫡統として彌之助が後見となり、小早川を手本としてこれまでの彌太郎の趣意を必ず守るように、とのことで、それはそれは立派な申し置きで恐れ入るばかりでした。・・・彌之助は、仰せの通り鬼になって力の限りを尽くします、と答えました。…二人は最後まで心を通わせていました……」(『美福院夫人手記纂要』)

最期をみとった医師団が、「多くの人の臨終に立ち会ったが、かくのごとく森厳な力のある遺言を述べ、従容自若、死に対した人を見たのは初めてである」と感嘆したほど、武士らしい立派な人生の幕引きでした。

彌太郎の生涯を貫いたのは、「義」と「国のため」を旨とした「明治の武士道」。期するところは国のため、社会のため。その精神は、三綱領にある『所期奉公』の精神として代々引き継がれているのです。

  • 引用部分は成田誠一著「岩崎彌太郎物語」より

彌太郎の書『水到渠成』

南宋の政治家・詩人だった范成大の詩の一節「水到れば渠と成る」で、水が流れて自然に溝ができるように、あれこれ画策せずとも、努力していれば物事は自然とでき上がるという意味です。どんな困難にも屈することなく、立身出世を遂げた彌太郎に相応しい書と言えるでしょう。
写真提供:三菱史料館